加藤忍九郎像
三石耐火煉瓦は、岡山県の東端、岡山県備前市三石にあります。
山間の小さな町・三石は、かつて40~50近くの「蝋石(ろうせき)」鉱山を有する鉱山町でした。
国内はもちろん、海外でも例がないほど、蝋石を多量に産していました。
明治5年、岡山県野谷村(備前市)で、加藤忍九郎がこの蝋石を原料に石筆(チョーク)の製造をはじめました。
明治維新によって、日本の近代化が進む中、学校制度の開始を受けて、文字を勉強するための道具、石板と石筆が必要となったのです。
そうして加藤忍九郎は、三石産蝋石による石筆製造事業を発展させました。
当初、鉱山から蝋石は手堀りしていましたが、機械化が進んで露天採掘が行われるようになり蝋石の研究が進むと、蝋石は耐火物用として優れた特性をもつことが判明します。
時代に耐火用途の需用を見越した加藤忍九郎は、明治25年に、三石煉瓦製造所を設立し、耐火煉瓦の製造を開始しました。
「三石耐火煉瓦」の歴史はここから始まります。
加藤忍九郎が耐火煉瓦を試作する際、地元の伝統産業、備前焼を焼く技術が役に立ちました。
最初の耐火煉瓦は、備前焼の登り窯で焼いたという記録があります。
耐火煉瓦の原料・蝋石の産地であったこと、煉瓦を焼くための窯があったこと、その二つが重なりあったことが、この地区が国内最大の耐火煉瓦の生産地となりえた大きな要因となっています。
やがて明治政府は富国強兵を推進してくと同時に、国内の産業育成政策を政府主導で推し進め、日本各地に製鉄所を建て、鉄を溶かす反射炉を築造します。
鉄を溶かす1500°C以上の高温に耐える耐火煉瓦は、反射炉の内張りという工業用材料に最適、なかでも三石の蝋石は鉱量豊富で耐火煉瓦の原料として好適と評価され、三石蝋石による耐火煉瓦の需要は徐々に増加していきました。
さらに戦争が始まると、軍艦のボイラーための耐火煉瓦が必要となり、三石煉瓦製造所は、海軍の指定工場になります。
当時の代表、明石三二(さんじ)は、新たなシャモット質の耐火用煉瓦、キャピタル煉瓦を考案。
耐火粘土をセ氏1300~1400度に加熱したのち、砕いて細かい粒にしたシャモットというその後の日本の産業の発展において重要な意味を成す、耐火煉瓦の足がかりになる製造技術を築き上げました。
鉄鋼精錬のプロセスの変化に伴い、耐火煉瓦に替わる数々の耐火物が使用されるようになったものの、耐火煉瓦は日本における鉄鋼製造の歴史に欠かせない資材として、その生産・供給を通じて戦後、鉄鋼業の発展に貢献してまいりました。
鉄鋼の製造現場で使われる耐火煉瓦の品質向上の追求こそが、日本鉄鋼業の技術力の高さにつながったといっても過言ではないでしょう。
蝋石の産地・三石で、耐火煉瓦工場として産声を上げた弊社では、耐火煉瓦の開発で培った長い歴史と蓄積したノウハウを活かし、耐火煉瓦製造業から次世代企業として目指し、新しい歩みを踏み出しました。
私たちのミッションは耐化煉瓦の町、三石の伝統と技術を守り、「加藤忍九郎」や「明石三二(さんじ)」の時代の先見性を持って、時に固定観念を超える、今までにない、新たな耐火煉瓦を創造していくこと。
これからも三石の大切な資源を有効に活用すべく研究開発を重ね、資源リサイクル技術を駆使しながら、日本の産業や国民の暮らしに役立つ、将来の事業を見据えた基礎研究にも長期的に取り組んでいきます。